【コラム】『ロマンとそろばん』~ソフト会社CEOの独り言~

第29回 震えた、あの日 2016年3月16日配信

私が高校生のとき、日本で初の東京オリンピックが開催された。
今から52年前の1964年のことである。

2020年には、このオリンピックが再び東京で開かれることになり、今は待ち遠しい。自分が生きているうちに直接観覧できる最初で最後になるだろうと思っているので、そのときは仕事を返上してでも見に行くつもりだ。

さて、オリンピックでは、いつも私達を奮い立たせてくれる大勢のヒーローやヒロインが誕生する。東京五輪 男子マラソンの「裸足のアベベ」、シドニー五輪女子マラソンで優勝した高橋選手、最近では、メダルこそ逃してしまったが私の奥方が愛してやまない女子フィギュアスケートの真央ちゃんなどが強く印象に残っている。

私の一番のヒーローは、1972年ミュンヘン五輪の男子バレーボール準決勝で、大逆転の末に日本チームを勝利に導いた南将之選手である。あの勝利は、「ミュンヘンの奇跡」とも言われた。

彼のことは、メキシコ五輪で大活躍したときから知っていたが、4年後のミュンヘンではすっかり大古、横田、森田らの若手に押され、表舞台からは遠のいていた。しかし、準決勝のブルガリア戦で途中出場をはたし、日本チームを絶体絶命のピンチから救ったヒーローとして、今でも私の胸の奥に深く刻み込まれている。

当時、私は、インターコムを設立する前のソフトウェア企業でプログラマーとして働いていた。そのころのソフトウェア業界と言うと、受注した仕事を完了できるまで家に帰れない、客先に泊まり込みでの出向が普通だった。

コンピューターは、昼間はユーザーが使っているので、我々のような請負会社の社員が使えるのは夜しかなかった。毎日、夜中に仕事を終えて朝方まで車中や寝袋で仮眠するという最悪、愚劣極まりない環境での作業の連続だった。そのため、“着の身着のまま”で何日も過ごすと、ワイシャツの袖口や襟口が擦り切れて、家に帰るころはぼろぼろになっていたこともあった。

当時、「コンピューター業界は花形産業」ともてはやされていたが、実態は、今更ながら最悪の業界だったと思っている。ちなみに、私はこうした劣悪な環境がいやで、パッケージソフトを開発する今のインターコムを作ったといっても過言ではない。当時、仕事の楽しみと言えば、家から持ってきたトランジスタラジオを聴きながら、夜な夜なプログラムを作るぐらいしかなかった。

さて、話を元に戻すと、南選手が出場したブルガリア戦を初めてラジオで聴いたのは、横浜にある半導体テスターの製造会社に出向きソフトウェアを作っている最中だった。たぶん夜の9時ごろだったろうか。だだっ広い開発ルームで、同僚と二人きりで作業をしているとき、たまたまラジオのスイッチを入れたら、あの忘れられない壮絶な実況放送が流れてきたのである。

(ここからは当時の記憶をたどりながら、一部フィクションも交えて話をする……)

準決勝まで順調に勝ち進んだ日本チームは、ブリガリア戦でも楽勝ムードが漂っていた。しかし、いざゲームが始まると日本の予想を大きく覆し、失うはずのない第1セット目を落とし、次の第2セット目もまた落として、まさかの2連敗を強いられてしまった。絶対勝てると思っていたブルガリアを侮ってしまったのだ。

こうなると我々ももう気が気ではない。作業を中断し、選手達の一挙手一投足に「ハラハラ、ドキドキ」しながら、固唾を呑んでラジオに聴き入った。ポイントが入れば「やった! やった!」と興奮して机を叩き、取られれば「ドンマイ、ドンマイ」と自分に言い聞かせながら、ゲームの行方を見守り続けた。

「0-2のような負け越しゲームはスポーツではよくあること。ここから挽回するのが日本チームの真骨頂。ここから一気に挽回すればいい」と、まるで解説者にでもなったような気持ちで第3セット目の得点を待っていると、ゲーム開始直後からまたまた期待を裏切られ最悪の6得点差を許してこの試合最大のピンチを迎えてしまった。

ここまで追い込まれると、「こりゃ本当にやばいんじゃないか……」、優勝どころか、準優勝の銀メダルさえ逃してしまうのではないかと悪魔の囁きまで聞えてくる始末。

と、そのとき、松平監督が突然選手交代を告げた。 「エッ、誰だ!」と思った瞬間、何と今までベンチに入っていた南将之選手が呼ばれたのである。後になって私が神様・仏様と仰ぐことになった南選手だったが、この時点では正直言って、出場回数が少ない彼で本当に大丈夫か? と、この交代劇がとても唐突に感じられた。

ここから南選手の予想外の大活躍が始まるのだが、ここに至って監督がなぜ彼を指名したのか、その真相を知ったのは、かなり後になってのことである。

南選手はこれまでに東京五輪やメキシコ五輪で日本を代表するスパイカーとして活躍してきた。だがチームはいずれの五輪も銅と銀メダルに甘んじていた。このため監督は、ミュンヘンで金メダル奪回を誓い、「世界の高さに勝てる」大型新人の発掘とこれまでにないまったく新たなコンビネーションバレーを編み出し、最強のチーム作りを目指したのである。

この技こそが世界初の「一人時間差」「Cクイック」「フライングレシーブ」などである。監督とコーチは、この技を全選手へ徹底的に叩き込んだ。しかし、その中で一人だけ「レシーブ」の特訓を嫌う選手がいた。南選手である。

想像だが、スパイカーとしてプライドが強かったため、そのセンタープレーヤーが「レシーブ」を拾うなど到底できないと高を括っていたのかも知れない。だが、若手選手の躍進で出番が少なくなるとベンチ入りも多くなり、彼自身も追いつめられていたのだろう。以来、彼は出場をかけ、自尊心をずたずたに潰されながらも特訓を受け入れたのである。特に、最も苦手な「フライングレシーブ」は何度も何度も繰り返し、何か月も掛かってマスターしていったそうだ。

私は、最近になってWebで練習後の彼の古い写真を見たことがあるが、ユニフォームは特訓で受けた血で真っ赤に染まり、手と腕と足は傷だらけでサポーターと包帯に巻かれた痛々しい姿があった。しかし、そこには徹底的に鍛え上げられた別人の南選手を見ることができた。

ミュンヘンでの準決勝戦では、第3セット目の途中から出場して、6点差で動揺している若い選手をフォローし、苦手だったあの「フライングレシーブ」も自ら決め、ここから一気にゲームの流れを変えてしまった。そして、とうとう第3セット目を大逆転勝利して、金メダル獲得への道筋を作ったのである。

3時間15分という長時間のゲームの行方を見守っていた我々も、このときばかりは、感動して全身を震わせ、同僚と涙ながらに「やった! やった!」と大声で何度も何度も歓喜の叫びを上げたことを今でも覚えている。その日、床に就いたのは夜中の1時過ぎだったと思うが、興奮のあまり朝方まで眠れなかった。

私は、この不屈の闘志を持った一人の孤高の選手から、どんなに苦しいときでも諦めない気持ちを持ち続けることの大切さと、私自身も辛い仕事の中でこの素晴らしい感動を共有できたことを決して忘れない。

株式会社インターコム
代表取締役会長 CEO 高橋 啓介


会社情報メニュー

設立40周年動画

日本SME格付けは、日本の中堅・中小企業の信用力評価の指標です。日本SME格付けに関する最新情報はS&P グローバル・マーケット・インテリジェンスのWebサイトでご覧になれます。日本SME格付けは、企業の信用力に関するS&P グローバル・マーケット・インテリジェンスの見解ですが、信用力を保証するものではなく、また、関連する取引等を推奨するものでもありません。

▲